魔女ミワのとある一日


激務だ・・・
激務、激務、激務。
パソコン画面で来週行われるセミナー資料を高速タイピングしながら心の中でつぶやく。
神さま激務です・・・激務に過ぎるんです。働き方改革とか今どうなってますか。

高速タイピングを続けながら、ミワはちらりとオフィスの壁にかかった時計を見る。
お昼まであと15分。
午後からはある企業に向けたアンガーマネジメントのセミナーが始まる。
ミワが担当している最近ニーズの高いセミナーで、複数の企業から社内研修の打診がある。
まったく・・・アンガーなんてマネジメントできるわけないでしょ。
怒り舐めんな。

ミワは眉間にシワを寄せながら、やや勢いよく保存!っとエンターキーを押した。
そしてオフィスの椅子に寄りかかりながら、肩をぐるりと回そうとして、止めた。
え、わたしの肩甲骨、どうなってる?
このまま回そうとした角度まで肩甲骨を動かすことを、体が「危険なのでおやめ下さい」と言っている。
肩を回すことは諦め、ミワはパソコン画面の「心のセルフケア」という表題を見つめながら静かに、そしてゆっくり息を吐いた。
誰かの心のケアの前に、私の体のケアが必要なんじゃないの。

ミワは心理業界としては珍しく、企業で正社員として働く臨床心理士だ。
臨床心理士は心理業界の中では知名度も資格取得難易度も高い高度専門職だが、この資格を持つ多くの者は常勤ではなく、非常勤としていくつかの職を掛け持ちしているのが実情だ。
その分身分保証はされずらく、老後は国民年金に頼らざるを得ないという、収入的には非常に心許ない職種である。
いってみれば、高学歴ワーキングプア。
ミワは企業で働きながら、自分が所属している業界の不甲斐なさにいつも人知れず腹を立てていた。
なんで大学院まで出て苦労して資格取った優秀な人材が、マックに毛の生えたような時給で働かなきゃいけないのよ。
職能集団として臨床心理士協会はなんとかしろっつの!

そして自分はといえば、身分保証はされているものの、昨今のメンタルケア、マインドフルネス、アンガーマネジメント、大人の発達障害といった社会のニーズに振り回されて、自分の肩甲骨さえまともに動かせない日々を送っているのだ。

私のしたいことって、こういうことだったっけ・・・

壁の時計はあと数分でお昼になろうとしている。
そんな時間を確認する一瞬だけ、ミワの心はやるせない命題に思いを馳せる。

私のしたいことって、何だったっけ。

そんな命題にじっくり取り組む時間はなく、一瞬でミワは頭の中でタスクをリストアップし始めた。
来週のセミナーの資料はあらかた作成したから、コピーする部数を確認しておかなきゃ。
午後からは担当しているセミナーがあるから、資料の最終確認と出欠簿を用意して、アンケートも用意して。
そして忘れずにトイレに行かなきゃ。
激務だとついトイレに行きそびれちゃうのよね。そのせいでこの間ひどい目にあったっけ。
頭のリマインドに「トイレ」とインプットし、お昼にしようとカバンからサンドイッチを取り出す。
そして何の気なしにスマホを開くと、メッセンジャーに一通の新着メッセージが届いていた。

あ、ゆみこさんだ。
ミワは自分が主催したコミュニティで知り合った、同じく臨床心理士のゆみこの顔を思い出す。
この業界には珍しい、どこをどう切り取っても陽キャな人物だ。
思い出すゆみこの顔は、いつも底抜けの笑顔。
この人の笑顔以外の顔って、逆に思い出せないな。
そう思いつつメッセンジャーを開く。

「ミワちゃん、お久しぶり!お仕事忙しいですか?
ところで今度、私のところでタロットを習ってくれたお仲間たちと<魔女の館>を作りたいんだけど、ミワちゃん力貸してくれないかしら?」

読んだ瞬間、何かが心で跳ねた。
ん?魔女の館???
タロットを習ってくれたお仲間たち?
そういえばゆみこさん、心理療法にタロットを用いる技法を開発してたっけ。
それにしても魔女の館ってなに。

メッセージを一通り読み終えたとき、通るはずのない一陣の風がオフィスにさっと吹いた・・・気がした。
と思ったら、後ろを通りかかった同僚の優と目が合う。
「どうかした?」そう目で問いかける優に、「いや、大丈夫」と軽く返事をする。

なになになに、タロットのお仲間と魔女の館って何?

目ではしっかりと壁にかかった時計の時間をチェックしながら、心の中で反芻する。
何それ何それ楽しそう。絶対にこの話には噛んでいく。仲間って誰だろう。私は何をすればいいんだろう。

頭の中でランダムに疑問を跳ねさせながらサンドイッチを咀嚼し、デザートに買ったプリンを食べ終える。
ミワは机の横に積んである午後の資料に目をやった。
さっきまでモノクロだった資料が、ちゃんとカラーに見えた。

「アンガーマネジメントね」
そうつぶやきながら、ミワは資料の目次を目で追った。
6秒ルール、深呼吸、思考の転換・・・

アンガーなんて、マネジメントできるわけないでしょ。
セミナーを主催するたびに口には出さずそう思っていたが、今日はいつもより心を込めて講義できそうだ。
できたらいいわね、アンガーマネジメント。

サンドイッチとプリンの容器をまとめながら、ミワは頭のリマインドに付け加える。

今日は仕事帰りに、駅近にあるマッサージに行こう。

化粧直しのポーチを取り出し、ミワは3時間ぶりに椅子から立ち上がった。
そうそう、そして絶対、トイレには行っておかないとね。














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